フランシス・ハイド・イイ・ブラウン(Francis Hyde ʻĪʻī Brown, 1892年9月16日 - 1976年7月24日)は、ハワイの政治家・フィランソロピスト・スポーツ選手。大首長だった祖父を持つハワイの名家の出身。多くのスポーツに通じたが、特にゴルフにおける活躍が知られ、ハワイにゴルフを根付かせた立役者とも言われる。リゾート地として知られるマウナ・ラニの旧所有者でもある。

生涯

祖父は、ハワイのアリイ(Aliʻi, 大首長)の一人であったジョン・パパ・イイ(1800年 - 1870年)。ジョン・パパ・イイは、ハワイ王国の重職を歴任するとともに、ハワイの歴史書 Fragments of Hawaiian History の著者としても知られる。フランシスの母のイレーネ・カヘレラウコア・イイ(1869年 - 1922年)は、ジョン・パパ・イイの子で唯一成長した人物であり、社会事業家(フィランソロピスト)として知られた。

1892年、フランシス・ハイド・イイ・ブラウン(以下、フランシス)は、ホノルルにおいて、イレーネと最初の夫であるチャールズ・A・ブラウン (Charles A. Brown) との間に、二男として生まれた。なお、1898年にイレーネはブラウン氏に離婚を突きつけ(女性から離婚を切り出すのは当時珍しいとされた)、のちカール・S・ホロウェイ (Carl S. Holloway) と再婚した。フランシスは、プナホウ・スクールに通ったのち、マサチューセッツ州のフェッセンデン・スクールに学んだ。

第一次世界大戦中には陸軍に召集された。救急車の運転手 (ambulance driver) を務めていたという。

戦後はハワイに戻った。1925年、ハワイ準州議会の下院議員に選出される。1927年からはハワイ準州議会の上院議員 (Hawaii Senate) となり、1947年まで務めた。

1933年に自動車事故に遭い、辛くも生還した。医者が「二度とゴルフはできないだろう」と言うほどの重傷であったが、16か月後、1934年のマノアカップで優勝を果たした。このマノアカップ優勝をもって、ゴルフを引退している。

1936年、ハワイ島西海岸のケアワイキ・ベイに面したカラフイプア (Kalahuipuaʻa) にコテージと広大な地所を取得し、著名なフラダンサーであったウィノナ・ラブ (Winona Love) と生活した。

1964年、東京オリンピックに参加したフランシスは、東急の五島昇と友人となり、五島をカラフイプアに招待した。こうした中で、世界各国の富裕層が集まりゴルフを楽しむリゾート地を作る構想が語られたという。1972年、ブラウンはこの土地を売却し、土地の名をマウナ・ラニに改めた(現在のマウナ・ラニ・リゾート)。マウナ・ラニは「天国に届く山」の意である。フランシス・イイ・ブラウンの名は、マウナ・ラニ・リゾートのゴルフ場に命名されている。

フランシス・イイ・ブラウンは、1976年8月にマウナ・ラニ・リゾートの完成を見ることなく、カリフォルニア州ペブルビーチの自宅で死去した。83歳。ダイアモンドヘッド・メモリアルパークに墓所がある。

スポーツ

フランシスはさまざまなスポーツに打ち込んだ。ポロや野球をプレイし、水泳選手としても強豪であり、サーファーとしても著名であったが、とくに秀でていたのがゴルフであった。

また、モクレイア・ポロ・フィールド (Mokule‘ia Polo Field) でのポロに大きく寄与し、マイナーリーグのプロ野球チーム「ハワイ・アイランダーズ」の維持にも貢献した。ハワイのゴルファーが本土のトーナメントに遠征する際には資金的援助を行ったという。これらの功績から、「ハワイスポーツ殿堂」に顕彰されている。

ゴルフ

1924年、ブラウンはスコットランド・セントアンドリュースのオールドコースで開かれた全英アマチュアゴルフ選手権で、67打というコース記録を樹立した。1927年、ペブルビーチ・ゴルフリンクスでもレコードホルダーとなった。生涯にホールインワン14回という。

1920年から1934年にかけ、フランシスはハワイのアマチュアトーナメントであるマノアカップで9回の優勝を果たし、ハワイのゴルフ界に君臨した。1929年から1930年には日本やカリフォルニアにも遠征し、現地のアマチュア選手との対抗戦で勝利しており、「ハワイ・日本・カリフォルニアのアマチュアチャンピオンになった」とも言われる。

日本ゴルフ協会によれば、日本ゴルフ協会がフランシスを代表とするアマチュアチーム8人を日本に招待したものであったという。1929年9月29日に東京ゴルフ倶楽部で「日本代表チーム」との間で行われた試合が、日本のアマチュアゴルフで初の国際対抗試合であった。次いで10月2日には茨木カンツリー倶楽部で関西チームと対戦した。10月17日から武蔵野カンツリー倶楽部六実コースで行われた日本アマチュア選手権に参加。この試合でフランシスは、ハワイチームの僚友であるK・ナカムラ(Nakamura Shogetsu とも)を破って優勝した。11月には、フランシスの招待を受けて安田幸吉と宮本留吉がハワイアン・オープン(ソニーオープン・イン・ハワイの前身)に参加するためフランシス一行と共にハワイに渡る。これが日本のプロゴルファーの初の海外遠征である。

家族・親族

1919年に Stephanie Wichman という女性と結婚しているが、フランシスは彼女のもとにとどまらなかった。ウィノナ・ラブ (Winona Love) とは後半生をともにしたが、正式な婚姻関係にはなかったようである。

甥のケネス・フランシス・ブラウンも、ハワイ州上院議員を務めた。

脚注

注釈

出典


マウナ ラニ リゾート フランシス エイチ イイ ブラウン サウスコース 7番ホール YouTube

秋冬 バイカラーのロングワンピース ブラウン ツイード×ヘリンボーン iichi 日々の暮らしを心地よくするハンドメイドやアンティークの

1864年8月21日、プリンスフランシスコデアッシジデブルボンを称えるバッサンドネプチューンのイルミネーション付き噴水ディスプレイ

【アイルランド出身の画家】フランシス・ベーコン イギリスでは3回とも朝食を食べよう!! おにぎりまとめ

美品 フランシストモークス 馬革 ホースハイド ファーコーティング カーゴパンツ メルカリ