大窪 安治(おおくぼ やすはる)は幕末、明治時代の本草学者。尾張藩士、嘗百社社員。大窪光風、大窪昌章に次ぎ薜茘庵3代目。

経歴

本草学者大窪昌章の長男として生まれた。幼名は小新吾、後に小新吾兵衛、勘五郎。

天保13年(1842年)6月14日父の死により御馬廻組を継ぎ、弘化3年(1846年)12月4日小十人組、嘉永6年(1853年)2月26日赤麾となり、3月29日太兵衛と改称した。安政4年(1857年)7月23日新御番、安政5年(1858年)2月19日組目付加役、文久4年(1864年)1月16日小十人組与頭。明治2年(1869年)9月2日一等兵隊となるも、明治3年(1870年)11月12日兵制改革のため免職となった。

明治19年(1886年)3月15日中ノ町小塩五郎宅に三島豪山、久米安政等と博物標本の展示会を開いて随意会と称し、4月8日浪越博物会と改称した。明治26年(1893年)10月8日68歳で死去し、長栄寺に葬られた。法号は安治院明道義忠居士。

逸話

小塩五郎と菰野山へ採集に行き、馬に同乗して四日市を通った際、大柄なため看板に頭をぶつけて瘤を作り、小柄な小塩五郎を落馬させてしまった。

晩年病臥し、起き上がれないと知ったある日、家族に「私はもう死ぬ。今日は馴染みの美人の芸者を呼んで最期の楽しみを極めたい。早く呼んでくれ。」と頼んだ。家族が訝ると、「美人の芸者というのは長年集めてきた腊葉標本のことだ。早く箱の中から呼んでくれ。」というので、家族は承知し、標本を部屋の壁一面に貼り付けた。安治はこれを見て「何物の美もこれには及ぶまい。ああ、もう心残りはない。」と喜び、間もなく死去した。

脚注

参考文献

  • 磯野直秀、田中誠「尾張の嘗百社とその周辺」『慶應義塾大学日吉紀要 自然科学』第47巻、慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会、2010年、CRID 1050845762334986240。 
  • 吉川芳秋「草や蜻蛉を友とした小塩三居巣翁」『紙魚のむかし語り』吉川芳秋、1958年。 
  • 名古屋市役所『名古屋市史 人物編』 2巻、川瀬書店、1934年。 NDLJP:1145366/263
  • 西川輝昭「愛知教育博物館関係史料の紹介と解説 (その1)」『名古屋大学博物館報告』第21号、名古屋大学博物館、2005年、doi:10.18999/bulnum.021.12、CRID 1390853649426148736。 
  • 蟹江和子、西川輝昭「愛知教育博物館関係史料の紹介と解説 (その2) : 当時の新聞記事に見るその足跡」『名古屋大学博物館報告』第22号、名古屋大学博物館、2006年、doi:10.18999/bulnum.022.11、hdl:2237/9331、CRID 1390572174449447296。 
  • 『藩士名寄』第11冊第5丁

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