烏丸 光宣(からすまる みつのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿。 官位は従一位・准大臣。
生涯
天文18年(1549年)、烏丸光康の子として誕生。
永禄12年(1569年)8月14日、光宣は父の光康、山科言継、飛鳥井雅春と共に、岐阜城の織田信長のもとに赴き、鳥一羽、太刀(金作り)、馬代(金十両)、居唐金鉢を贈った。
元亀2年(1571年)4月14日、光宣の妻・入江殿(将軍・足利義昭の姉)が急死すると、後難を恐れた光宣は出奔した。これに激怒した義昭は、同月28日に一色藤長らに烏丸邸を襲わせている。また、光宣の出奔により、父の光康が閉門処分となった。
元亀3年(1572年)9月、信長が義昭に対し、異見十七ヶ条を提出した。信長はその中で、光宣に対する処置は妥当とするものの、父の光康を赦免するように申し上げたと記している。
天正5年(1577年)正月5日、参議となる。
天正9年(1581年)2月28日、信長が行った京都御馬揃えにおいて、公家衆の一人として参加した。
慶長16年(1611年) 11月21日、薨去。享年63。
人物
- 能書家で、尊朝流の書にすぐれた。
脚注
参考文献
- 木下昌規『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年。ISBN 978-4-87294-875-2。
関連項目
- 畿内・近国の戦国時代




